「貧困・格差・虐待の連鎖を乗り越える教育アプローチの研究開発と普及」プロジェクトが推進する「『生きる』教育」が、2025年12月、NHKのEテレで特集されました(*1)。番組を制作されたNHK チーフ・ディレクターの猪瀬美樹氏より、「『生きる』教育」の重要性や取材で見えてきた現場の声を、特別寄稿としてお寄せいただきました。これからの教育を考えるヒントが詰まった本稿を、ぜひご一読ください。
(*1)ETV特集「『生きる』教育を君たちへ」
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はじめに
皆さん、こんにちは。2025年12月にETV特集「『生きる』教育を君たちへ」というドキュメンタリー番組を担当したご縁で、この記事を書かせていただくことになりました。「『生きる』教育」との出逢いから、番組を作った動機、取材を通して感じたことについて書いていきたいと思います。

「『生きる』教育」との出逢い:《受援力》を育む授業に感じた希望
私が「『生きる』教育」を知ったきっかけは、日本大学の末冨芳教授が編者を務めた書籍『子ども若者の権利と政策1 子ども若者の権利とこども基本法』(明石書店)の中で、社会福祉士の辻由起子さんの文章を読ませていただいたことでした。書かれていたのは、子ども自身が《子どもの権利》を学び、心と体を守るための力を身につけていく「『生きる』教育」の実践についてでした。当時、「虐待」をテーマとしたドキュメンタリーを連続して制作していた私は、次のテーマとして《子どもの権利》や《学校》というキーワードが気にかかっていました。「実際にどんな授業が行われているのか」、「子どもたちは授業にどう反応しているのか」を確かめるため、2024年9月に大阪市生野区の田島南小中一貫校に初めて足を運びました。
「どれでも好きな授業を見学して下さい!」。
さっぱりとした笑顔で迎えて下さった今垣清彦校長の言葉に甘えて、小1『プライベートゾーン』、小2『いのちのルーツ』、小3『子どもの権利条約』、小4『10歳のハローワーク』、小5『デートDV』、小6『家族について考えよう』、『心の傷のメカニズム』、中1『脳と心と体とわたし』、中2『リアルデートDV』、中3『子ども虐待』などプログラム全体の半数近くの授業を見ることができました。
まず最初に印象に残ったのは、どの授業も子どもが目を輝かせながら、我も我もと手を挙げて発言していく姿でした。「先生、私も当てて!」、「僕も言いたい!」と止まらないのです。「みんなどうしてこんなにちゃんと意見が言えるんだろう」と観察していると、配布されている「ワークシート」に工夫が凝らされており、まずは「自分の意見」をシートに書き出す手順になっていることに気づきました。全ての授業で、自分の考えを「言葉にすること」、そして、「仲間に言葉で伝えること」、「対話をすること」が大切にされていると感じました。
そして、何よりも心打たれたのは、9年間の全ての授業が子どもが厳しい現実社会を生きていく上で必要な「人に助けを求める力」、《受援力》を着実に身につけることを目指して構築されていることでした。「困っているときには、『助けて』って言っていいんやで」。教師たちの温かな想いや願いが、授業の細部に満ちていました。取材の帰り道、「この授業は本物だ。絶対に番組にしたい!」という高揚感に包まれながら、私の心は10年前の記憶を辿り始めました。
《困ったときに助けを求めること》は簡単ではない ──“赤ちゃんポスト”の取材から
2014年秋、私は日本で唯一の“赤ちゃんポスト”(正式名称『こうのとりのゆりかご』)を運営する熊本の慈恵病院で、当時の院長・蓮田太二医師を相手にドキュメンタリー番組の撮影交渉を行っていました。私の提案は、病院が『こうのとりのゆりかご』開設以来24時間365日続けてきた『SOS妊娠相談(無料の電話相談)』の相談室に長期密着させてほしいというものでした。目的は、“予期せぬ妊娠”に悩む女性たちの実像を伝えることでした。病院とプライバシーの保護について綿密な取り決めを交わし、“撮影の扉”は開かれました。

番組はETV特集「小さき命のバトン」として、2015年5月に放送されました。
半年に渡る密着取材では、様々なSOSの声に触れました。10代の妊娠、性暴力被害や近親相姦による妊娠、貧困に喘ぐ女性たち。全国から寄せられる相談件数は、開設から8年間で9千件以上に及んでいました(取材当時)。身近に相談できる人や場所がなく、孤立している人がこんなにも多いのかと圧倒されました。10代の女性は「お母さんのことが好きだから、なかなか妊娠を打ち明けられなかった」と語りました。電話相談に辿り着くことができず、誰にも妊娠を打ち明けることができないまま自宅でひとりで出産し、赤ちゃんが亡くなったことで母親が逮捕されたケースも取材しました。
蓮田太二医師は「長い間いじめに遭ったり、差別を受けている人たちは声を出せないんですね。どうして友達に言えなかったんだろう。親に言えなかったんだろうという想いを強くすることは何度も何度もありました。孤独の内に自宅で出産することを防ぐために、『相談してください』と呼びかける必要があると思います」と語りました。
なぜ支援が必要な人ほど、自ら『助け』を求めたり、相談することができないのだろうか。
番組の放送が終わった後も、私は“重い宿題”を抱えたままでした。
★ETV特集「小さき命のバトン」
⇒NHKティーチャーズライブラリーでは、教育機関を対象に番組DVDを無料で貸し出しています。
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子どもが『権利』を学ぶ意味:《守られるべき大切な私》だから、相談できる
“赤ちゃんポスト”の取材から10年。子どもの目線に立って丁寧に作られた「『生きる』教育」の授業を目の当たりにしたことで、「相談したり、助けを求める方法」を《私たちは学んでこなかったのだ》という事実に改めて気づかされました。誰もが『助けて』と言ってよい社会を作るために、一つのアンサーとしてこの授業を伝えたいと考えるようになりました。
そのため、ETV特集「『生きる』教育を君たちへ」では、小学4年生が《自分を見つめ、悩みを相談すること》に向き合う『10歳のハローワーク』の授業を番組の柱に据えることにしました。そしてもう一つ、大事だと考えたのが小学3年生の『子どもの権利条約』の授業でした。日本が、1994年に国連の『子どもの権利条約』に批准してから30年以上が経ちます。しかし、今もほとんどの小学校で《子どもの権利》について教えられていません。
田島南小中一貫校では、独自に「8時間」もの授業を開発しています。単なる座学ではなく、ゲームのように「カード」を使って手を動かしたり、友達と議論をしたりしながら、《権利》を心と体の中に入れていきます。40条もの条文に守られていることを学んでいく子どもたちは、どこか誇らしげです。「生きる・育つ権利」、「あらゆる暴力から守られる権利」、「自分の意見を言う権利」など様々な権利を手にし、《私は守られるべき大切な存在である》という実感が子どもたちの背中を支えていきます。
「悩みを話してもいいんだ」、「悩みを聴いてもらったら、何だかすっきりした」、「友達も自分と同じことで悩んでいたんだ」。そんな“小さな成功体験”が生まれた瞬間を幾つも映像に収めることができました。一方で、子ども同士の対話だけでは解決できない《深刻な悩み》については、「『生きる』教育」を担当する別所美佐子教諭や担任の先生たちが改めて個別に聞き取りをし、保護者対応などにつなげていた点も補足しておきます。「大人に相談したら、対応してもらえた」という体験はとても重要です。

広がり始めた「『生きる』教育」:現場の教師たちの声
田島南小中一貫校で生まれた「『生きる』教育」は、同じように子どもたちの課題と向き合っている学校現場で少しずつ広まり始めています。
大阪の門真市立四宮小学校では、2025年から「『生きる』教育」の導入を始め、小1『プライベートゾーン』、小3『子どもの権利条約』、小4『考えよう みんなの凸凹 ―障害理解教育』などの授業を行いました。きっかけは、校内で「暴力」や「いじめ」の報告件数が増加していたこと。教師たちの間で「何が原因なのか」、「どんな力を育む必要があるのか」を模索していたときに「『生きる』教育」に辿りついたと言います。寺本信雄教諭は「子どもたちが自分の“弱み”を見せることに抵抗感があり、『助けて』と言えないことが気になっていた」と言います。そのため、四宮小学校の場合は、子どもとの対話を大切にする生徒指導と「『生きる』教育」を組み合わせながら、安全・安心な学校作りに取り組んでいます。「困ったときや失敗したときに、『戻ってきていいんだよ』、『またチャレンジしていいんだよ』というサイクルを作るために、まず環境をしっかり整えてあげることが必要だと思います」(寺本教諭)。
京都市立京都奏和高校は、不登校経験や発達特性があり、“学び直し”を望む生徒を積極的に受けて入れている普通科定時制高校です。現在は「『生きる』教育」から『子どもの権利条約』の授業を取り入れて教えています。中心となっている井上翔一教諭は、生徒たちが抱える“生きづらさ”の背景には、虐待やネグレクトなど家庭環境のしんどさが影響している場合もあると感じてきました。井上教諭は「子どもの権利を教えることで、『あなたはここに居場所があるんだよ』ということを学校が全力で伝えていく。生徒たちが『私はここにいていいんだ』と思えるような場所を作っていきたいです」と語ります。
こうした各地で奮闘する教師たちの背中を押し、ネットワークをつなぐ役割を果たしているのが京都大学大学院教育学研究科が運営しているE.FORUMです。「『生きる』教育」研修会も行われており、番組を制作する上でも貴重な学びの機会になったことを感謝の気持ちとともに申し添えさせていただきます。“虐待問題の第一人者”の山梨県立大学大学院 西澤哲特任教授ら専門家による充実した講義や、田島南小中一貫校の先生方による生き生きとした模擬授業。そして、週末にも関わらず研修会に集まり、熱心にノートを取り、議論を交わす先生たちの姿に勇気づけられました。
89分のドキュメンタリーが放送決定!!
最後にお知らせです。
ETV特集の放送後、全国の教育関係者から「全国に広がってほしい実践だった」、「取り組んでいる先生方の本気と覚悟を感じた」などの反響が寄せられました。新たに89分版を制作します。日曜日の午後の放送です。子どもたちや保護者の皆さまも、ぜひご覧下さい。
| 番組名:「生きていく力を、君たちへ」 放送日:3月1日(日)15時30分~16時59分(89分)【NHK・Eテレ:全国放送】 NHK ONEで同時配信&見逃し配信1週間・その後、NHKオンデマンドでも配信予定 ホームページ:https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-LPPYYZ8J8W |